ランニング履歴書

小学生時代

 今でもそうですが、生まれつき視力が弱く、身体が小柄だった私は、ボール運動が大の苦手でした。ドッチボールをする時など、いかに痛くなく当たって外野に出るか、ということしか考えていない子でした。そんな中で、まあまあだったのが、かけっこです。といっても、すごく速かったわけでもなく、5年生の運動会で、確かクラスの男子で4人のリレーの選手になれて、とても嬉しかったのを覚えています。
 4年生の時ですが、当時ミュンヘンオリンピックが開催されていた影響で、クラスの男子を集めて。子供だけのオリンピックを開きました。サッカーとか、自転車のジャンプなどの競技があって、最終日は、もちろんマラソンです。学区域の道で2km位のコースを決めて、10人位で、よーいドン。レース展開は、意外なことに、普段運動では目立たないY君が、ぶっちぎりで先頭を走っていきます。みんな、「どうせ疲れるさ。」といって付いていきません。ところがところが、Y君はそのまま、ぐんぐん行ってゴール!! マラソンというのは、いつもの運動ができるのとは、関係ないんだな、と思いました。ちなみに2位が私で、これもまわりからは意外だったようでした。メダルは、給食の牛乳のふたにクレヨンで色を塗ったものでしたから、かわいいですね。

中学生時代 = 陸上部時代

 他のスポーツがダメだったので、中学生になると陸上部に入りました。1年生の時は、短距離をやっていて、新潟市の大会で、100m、、200m、100m×4リレーに、出させてもらいました。いずれも予選敗退でしたが、特に印象に残っているのは、リレーです。何度も練習したとはいえ、バトンパスは、ドキドキもの。私は、第3走でしたが、無事にバトンが渡って、アンカーが走っていく後姿を見た時の、ほっとした満足感は、今でもよく覚えています。
 我が学年は長距離選手が2人だけしかいなかったため、クロスカントリーリレーも参加することができました。コースは、1人2km位の海岸沿いのでこぼこした周回コースで、ひどい雨の日でした。なんとかチームの足を引っ張らないようにと、必死に走って、1人か2人に抜かされただけで戻って来ると、走る前に「お前に長距離が走れるのか」と心配していた友人が、「がんばったじゃないか。」と言ってくれて嬉しかったのを覚えています。
 1年生時代は、もくもくと自己記録を目指して練習する尊敬すべき先輩にも恵まれ、たいへん充実していたと思います。

 ところが、2年生になると、東京の学校に転校することになりました。迷わず陸上部を選んだのですが、練習は毎日が当たり前だと思っていたのに、週3回だけ。しかも、ちょこちょこっとするだけ、って感じでがっかりしました。しかも、区の大会は、陸上部より速いサッカー部や野球部の生徒が出て、我々は、ハードルの出し入れなどのお手伝い係でした。もちろん、そのようなお手伝いは大事なことですが、これでは、陸上部の連中のやる気がでません。そこで、ある日、意を決して、行動にでました。陸上部の顧問の先生への抗議です。単身で、職員室に乗り込み、「大会の選手は、陸上部から出すように。そうでないと、目標がなくて強くなれない。」と主張しました。そうしたら、「悔しかったら、強くなれ。」という予想とおりの答え。鶏が先か、卵が先かといった感じの議論ですが、今でも自分の主張が正しいと思っています。目標を持って、それに向けて努力する過程が何より大切。成績は二の次と思いますが、みなさんは、どうお考えになりますか?
 結局、この先生への抗議が、自分にとって、東京での陸上部の最大のイベントでしたが、その抗議のためかどうかはわかりませんが、3年生の時に、通信陸上という大会で、3000m走に出させてもらいました。タイムは、11分23秒か26秒だったように思いますが、当時は満足できなくて、記録証をどこかにやってしまったのが残念です。

高校生〜20歳代 = サイクリスト時代

 高校に入ると、1日だけ陸上部の体験入部をしましたが、ウォーミングアップで2km位走るだけで疲れてしまうありさまで、高校の陸上部のレベルの高さを感じました。それより決定的だったのが、ある本で、長距離走は身長の伸びによくないと書いてあるのを読んだことで、陸上を続けることは止めにしました。今から思うと、結局背は伸びなかったのだから、少々後悔です。
 それにかわって趣味にしたのが、サイクリングです。中学3年生の時に、友人たちと江ノ島に行ったのが最初で、高校時代の夏休みには、友人たちと、日光、富士五湖伊豆、八ヶ岳方面に、泊まりのツアーにも行きました。
 この趣味はその後社会人になるまで続き、集大成となったのが、九州、北海道までのツアーです。いつも、フロントバック、サドルバックにリュックサックという身軽な旅行で、ユースホステルを使っていました。通算100泊以上はしたはずです。
 この間、ランニングの方は、サイクリングのための補強として、たまに思い出したように走っていた程度です。

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30歳代 = 無スポーツの時代からランナーへ

 結婚してしばらくは、妻と2人で、サイクリング旅行を楽しんだりしていましたが、今度は韓国で走ろうかなどと話していた頃、長女が生まれることとなり中断。その後は、子連れで自転車というわけにもいかず、結局自転車もさび放題ということとなってしまいました。
 3人の子供の子育ても忙しく、スポーツなど全く無縁のまま、30歳代も後半に。最近、ズボンノのベルトの穴が外側にずれてきたなあと感じ、ちょっと運動したほうがよさそうと思い、38歳9ヶ月で、ランニングを始めました。自分の性格として、ただただ走っているのもつまらないので、目標をたてよう、そうだ!マラソンを走ろうと決めました。

 走り始めると、意外と身体は動くことに気が付きました。3日目には、30分以上走れたのですが、次の日、右膝が痛くなりました。休めば治るけれど、走るとまた痛くなるので、しばらくして、整形外科医に行きました。その時の先生の言葉が忘れません。
「あなたのように、昔やっていた人は、頭では走れるし、事実走れるものです。でも、あなた位の年齢になると、脚の力は半分になっているんです。」
 ズボシとはいえ、随分はっきり言う先生です。
 長距離走の魅力は、練習すればするだけ結果が返ってくることと思っていましたが、今は、いつも自分の身体と相談しながら、やり過ぎず、怠らずを心がけて、走り続けていこうと思っています。

初マラソンからサブスリーランナーへ

 フルマラソンを走る前にハーフマラソンを5回完走するというハードルを自分に設けました。 それを達成して記念すべき初フルマラソンは、走り始めて7か月後の、2002年3月24日、東京・荒川市民マラソンです。 35キロまでは意外とたいしたことないなと思いましたが、まさにそこに壁がありました。 最後はマラソンの苦しさを十分堪能しましての完走でした。 初フルのタイムが3時間33分50秒でしたが、欲が出た2〜4回目のマラソンは、そのタイムを超えるとこができず、その年の11月の大田原マラソンで、前半1時間40分、後半1時間33分の完全な後半型レースで、3時間13分34秒を記録しました。 このレースが、後半型を是とするとっとこ流の原点です。
 その後、浮き沈みがありながら、5キロ。10キロのスピード的には、2004年〜2005年にピークを迎え、そして、ついに、2006年2月19日、泉州国際市民マラソンで、フルマラソンの初サブスリー(2時間58分10秒)を達成しました。 何もかも中途半端な自分の生き方の中で、サブスリーというのは、日々の積み重ねが形になったということで、たとえ経済的な価値はゼロであっても、また、マラソンに関心にない人からは何の価値もないものであっても、自分にとっては、心の勲章だと思っています。
 サブスリー達成後は、マスターズのトラックレースから、トレイル、富士登山競走、ウルトラマラソン、アクアスロン・・とさまざまな走りの競技を楽しんでいます。 しかし、自分の本筋は、5キロからマラソンまでかと思っています。 
 2014年8月現在、サブスリーは、6回達成、ウルトラマラソンのサブテン(100キロ10時間切り)は、1回達成、富士登山競走は、2回完走。
 50歳を過ぎてから、急に走力は落ちていますが、生涯、フルマラソン完走100回=サブフォーを目指してやっています。